羽場日枝神社獅子舞の由来
足利時代、天文二年癸巳(1533)五月、伊勢の国の元神官と名乗る夫婦が、今の上羽場区北部に辿り着いた。男は「才八」女は「たん」と名乗り、村人に一夜の宿を請うたが、農繁期の事とて泊めてくれる家もなく、やむなく一宇の堂を借りて夜を過ごした。
長旅の疲れか、夜明け頃から才八の腰が痛みだし、たんの必死の看病も効果なく、見かねた村人達も医者よ薬よと世話を惜しまなかったが、病は重くなるばかり。この上は神仏に縋るしかないと、心に決めたたんは、この村の氏神である山王宮に、十七日間の火物断ちを誓い、白滝に身を浄め、丑の刻参りを実行した。
そして満願の夜、一心に祈る最中、白髪の老人が現れ『我は山王権現なり。お前の夫を思う心に感心した、病を治してやろう。以後この地に住まい我の氏子となり、才八が習い覚えし獅子舞を、氏子に伝え毎年の祭りに奉納させよ、さすれば来年の夏は流行り病に悩まされようが、我が諸神の力を借りこれを阻止する、帰ってこのことを村人に伝えるが良い』と告げて消えた。
夢か現実か、ハッと気が付いたたんは飛ぶように帰宅し、夫に此の不思議な出来事を話すと、寝ていた夫が起き上がり、手を合わせ三拝した。たんは夫が起き上がったのを見て驚き、夫は病を即座に治してくれた氏神と、たんの貞節に対し、感謝の涙に暮れたという。
翌朝このことを村人に知らせたところ、不思議な事と思いながらも、たんの真心と神の御心に、感じ入った様子であった。
この地に住居を得た夫婦は、翌、天文三年甲午正月、神との約束の獅子舞のことを、村人や村役等に話をしたところ、皆もっとものことと同意し、早速若者を集めて稽古を始めたところ、珍しいことと見物市をなす有様で、お囃子の調子からデッツク舞とも言われた。
自作に獅子頭を三頭彫刻し、舞に必要な諸道具を調え、四月中の申の日の、山王権現例大祭の七日前から稽古に励み奉納した。
その年の六月、全国的に流行り病が蔓延して多くの死者が出たが、羽場の山王宮の氏子からは一人の発病者も出なかったと言われている。
才八・たんの夫婦は、約二反歩の田畑を開墾し生涯を過ごした。夫婦の墓は自分の田を見渡せる所の「おたんどん」と言う地にある。夫が舞を妻がお囃子を教えたことから、この地を〈女囃子〉と言いのちに現在の地名である〈女林〉(おなばやし)に変わったと言う。
それから四百八十有余年、絶えることなく奉納され続けた獅子舞は、毎年五月三日の羽場日枝神社の春季例大祭に、天下泰平、国家安寧、五穀豊穣を祈願し奉納される。
演目は、宮廻り(みやめぐり)、社吉利(しゃぎり)、初吉利(しょてぎり)、仲吉利(なかぎり)、後吉利(しめぇぎり)である。
昭和49年3月18日 みなかみ町指定重要無形民俗文化財
平成29年3月10日 群馬県指定重要無形民俗文化財

重要無形民俗文化財認定書
羽場日枝神社 所在地 群馬県利根郡みなかみ町羽場588番地